Auf einen Blick
沖縄は23日、「慰霊の日」を迎え、太平洋戦争末期の沖縄戦で亡くなった戦没者を悼み、平和を願った。遺族らは平和祈念公園や魂魄の塔を訪れ、犠牲者に思いをはせた。高市早苗首相も追悼式に出席する。
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Warum es wichtig ist
沖縄は23日、「慰霊の日」を迎え、太平洋戦争末期の沖縄戦で亡くなった戦没者を悼み、平和を願った。遺族らは各地で犠牲者に思いをはせた。
沖縄は23日、太平洋戦争末期の沖縄戦で亡くなった戦没者らを悼む「慰霊の日」を迎えた。人々は各地で犠牲者に思いをはせ、平和を願った。
早朝の沖縄、祈る遺族
沖縄戦で多くの犠牲者が出た糸満市摩文仁では、23日朝早くから遺族や戦争体験者らが亡くなった人を悼み、平和を願った。
戦没者の名前が刻まれている平和祈念公園内の「平和の礎」。浦添市の善平(よしひら)光枝さん(82)は、夫の祖母や母、姉の名前が刻まれている礎の前で手を合わせていた。「平和な世の中であることを見守っていてください」
沖縄本島北部の恩納村で生まれ、当時1歳だったため戦争の記憶はない。戦後、当時の体験を母から聞かされた。泣き虫だったため、壕(ごう)などに隠れる際は近所の人から冷たい視線を浴び、母が口を押さえて泣きやませようとしたという。「戦争は人間の性格までも変えてしまう。絶対に繰り返してはいけない」と訴えた。
礎には沖縄戦の犠牲者だけでなく、満州事変に端を発する「15年戦争」で亡くなった沖縄県出身者の名前も刻まれている。沖縄市の大嶺美代子さん(87)は、娘の多美会(たみえ)さんとともに訪れ、フィリピンで亡くなったとされる義理の父の名前にむかって手をあわせた。礎が完成した1995年以来、毎年のことだ。「今年も来ましたよ。孫たちが幸せになるように見守ってください」
沖縄戦当時、幼かった自分は、父母や姉ら家族5人とともに、いまの沖縄市から本島北部の国頭村へ避難した。いまの名護市の海岸沿いの道までたどりついた時、同乗していた親戚が声をあげた。「敵機だ!」。慌てて車を降りて近くに隠れると、投下された爆弾で車が大破した。その記憶は鮮明だ。
その後は、米軍の攻撃を避けるために、昼は沖縄特有の大きな墓の中に隠れる生活に変わった。避難先でも同じだ。昼は山の中に隠れ、夜だけ里に降りてきて、畑のいもを採って腹の足しにした。
幸いなことに家族全員が無事に戦後まで生きのびた。だが、周りには遺体が転がっていた記憶がある。
語りながら、胸にこみ上げるものがあったのか。大嶺さんは涙を拭きながら語った。「こんなに大勢の人が亡くなったんです。戦争は本当にむごいですよ。もう二度とやってはいけない」
平和の礎から約3キロ離れた「魂魄(こんぱく)の塔」にも、朝から静かに祈りを捧げる人たちの姿があった。
魂魄の塔は、沖縄で最初にできた慰霊碑といわれる。敗戦直後の1946年、生き残った地域の人たちが道や畑に散らばる遺骨を集め、建立した。それから80年。
儀間稔さん(65)は長女や孫らと5人で訪れた。戦時中16歳だった母の秀子さん(96)は父の遺骨が見つかっておらず、魂魄の塔なら「遺骨が眠っているのでは」と毎年足を運んでいた。
だが秀子さんは施設に入所し今年は来ることができなかった。儀間さんは秀子さんの思いも込め「平和な世の中になってほしい。今が新しい戦前にならないように」と手を合わせた。
最後の激戦地となった沖縄本島南端の糸満市摩文仁(まぶに)にある平和祈念公園では22日夜、平和への願いを込めた4本のサーチライトが夜空へ放たれた。
平和祈念公園で23日午前11時50分から、県など主催の沖縄全戦没者追悼式が開かれる。玉城デニー知事が平和宣言を読み上げ、豊見城(とみぐすく)市立豊崎中2年の亀谷琉奈(かめやるな)さん(14)が「平和の詩」を朗読する。高市早苗首相も昨年10月の就任後初めて沖縄を訪れ、式に出席する。
公園内の「平和の礎(いしじ)」には、戦没者の名前が刻まれており、今年、新たに95人が刻銘された。軍人や民間人、国籍などの隔てはなく、全体で24万2659人にのぼっている。
沖縄では1945年3月下旬…
Offene Fragen
- 戦争の記憶が風化することへの懸念
- 平和への取り組みの継続性






