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1582年「本能寺の変」と同日、備中高松城を包囲する羽柴(豊臣)秀吉と対陣していた毛利氏の武将、吉川元春が重臣に宛てた書状の原本が発見された。水攻めで苦戦し、「安否の一戦」も辞さない切迫した戦況が記されており、敵対側の視点からの一次史料として貴重。
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Why It Matters
1582年6月2日、織田信長が家臣の明智光秀によって討たれた「本能寺の変」が発生した。同時期、羽柴(豊臣)秀吉は備中高松城を水攻めで包囲し、毛利氏と対陣していた。
1582年の「本能寺の変」と同じ日に、備中高松城を包囲する羽柴(豊臣)秀吉と対陣していた毛利氏一門の武将が残した書状の原本が見つかりました。敵対した側の視点でリアルタイムに記された1次史料の確認は初めてです。Q&A形式で読めて役に立つ「サクッとニュース」、今回は「『本能寺の変』当日の書状の原本発見」を解説します。
Q どんな書状が見つかったの?
A 毛利元就の次男・吉川元春が重臣の今田経高に宛てた書状の原本です。
Q 書状には何が書かれていたの?
A 秀吉軍の水攻めで苦戦している様子や、「この期に及んでは『安否の一戦』(勝算も定かでない決戦)を行うほかはない」と切迫した戦況が記されています。
Q どうやって発見されたの?
A 山口県岩国市立博物館「岩国徴古(ちょうこ)館」に寄贈された史料の中から発見し、東京大史料編纂(へんさん)所の村井祐樹准教授が花押や筆跡などで原本と確認しました。
Q 書状はどこで見られるの?
A 6日から岩国徴古館で展示されます。
Open Questions
- 書状はなぜこれまで発見されなかったのか
- 書状発見の経緯で、他にどのような史料が見つかったのか
- 吉川元春の「安否の一戦」という決断は、毛利氏のその後の戦略にどう影響したのか
- この書状は、本能寺の変の報せを受けて書かれたものか、それ以前から切迫していたのか






