Quick Look
濱口竜介監督の最新作「急に具合が悪くなる」は、セリフを単なる情報伝達ではなく、関係構築の手段として描く。登場人物たちの対話を通して、互いを理解しようとする過程そのものを追求し、言語が関係の産物であることを示唆する。
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Why It Matters
筆者は濱口竜介監督の最新作「急に具合が悪くなる」を見て、自身の東京大学時代の経験や、恩師との対話を思い出した。作品のセリフの多さに対する批判に対し、濱口映画におけるセリフは情報伝達ではなく、相互理解を目指す過程そのものであると論じる。
濱口竜介の最新作「急に具合が悪くなる」を見ていて呼び起こされたのは、単なる映画的感興ではなかった。森崎真理(岡本多緒)とマリールー・フォンテーヌ(ビルジニー・エフィラ)の偶然の出会いと再会、結末に至るまでの対話に、東京大学の恩師・清水剛先生の記憶がよみがえった。
14号館の応接室で行われた最初の面談から、先日筆者が製作に参加した映画のシチリア映画賞受賞を祝して、東大の校章が入ったパーカを贈ってくださった夕食会まで、20年近い時間が流れていた。
そう、ある関係は事件ではなく、繰り返された対話の蓄積として残る。そして、私たちの対話の主題は「アジアの開化と近代」だった。私は国際社会科学専攻のゼミに所属していた。
セリフは情報伝達の手段ではない
濱口作品をめぐる定番の批判として、「セリフが多い」「現実ではあのような話し方はしない」「知的なふりをしている」といったものがある。しかし私は以前から、こうした批判は濱口映画の核心を見落としているのではないかと考えている。
作品の難解さや「専門的な知見の引用だ」という指摘は重要ではない。問題は、なぜ登場人物たちがそのような言葉を必要としているのかという点にある。
濱口映画において、セリフは単なる情報伝達の手段ではない。彼は長年にわたり、人間が互いを理解しようとする過程そのものを映画の中心に据えてきた。
「ハッピーアワー」では4人の女性たちが絶え間ない対話を通じて自身の人生を再構成する。「偶然と想像」では、偶然の出会いの中で交わされる言葉と誤解が関係を形成していく。「ドライブ・マイ・カー」において、セリフは喪失に耐えるための儀式であり、他者へと近づくための通路だった。
関係の産物としての言語
「急に具合が悪くなる」もまた例外ではない。
真理は、自身が演出する一人芝居の後のQ&Aセッションで、末期がん患者であることを告白する。客席のマリールーと舞台上の真理は日本語で会話を続けるが、他の観客からフランス語で話してほしいという声が上がる。真理が通訳しようとすると、同席していた、舞台の主人公である清宮吾朗(長塚京三)が、「翻訳しなくても皆、理解していただろう」と述べ、それを制止する。
この場面は、一見すると閉鎖的で不親切に映るかもしれない。しかし私にとっては、これこそが濱口映画全体を貫く言語観を最も凝縮して示した瞬間だった。
オーストリアの哲学者ルートビヒ・ウィトゲンシュタインは著書「哲学探究」において、「語の意味は、その言語における使用である」と述べた。意味とは辞書の中に固定されているものではなく、特定の生活形式の中で形成されるものである。言語は単なる情報伝達の手段ではなく、関係の産物なのだ。
この観点からすれば、「急に具合が悪くなる」の中で2人の女性が日本語を用いることは「国籍」の問題ではない。それは彼女たちが関係を築く「方法」の問題なのである。
彼女たちにとって日本語とは、単なる「日本人の言語」ではなく、互いを理解し、問いを投げかけ、思考を共有してきた生活形式そのものなのだ。吾朗が指摘したのは、客席の観客たちが対話の内容を逐語的に理解できなかったとしても、2人の間に築かれた関係そのものを感じ取ることはできる、という可能性だったのではないか。
相互理解のリアリズム
もちろん、情報伝達という次元では翻訳は必要である。しかし、この映画が描こうとしているのは、情報の正確な伝達だけではない。2人の関係の中で生じる理解の可能性、そしてその関係を目撃する他者もまた、完全ではなくとも何かを受け取ることのできる可能性なのである。
ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の概念を借りるならば、彼女たちはすでに同じ言語ゲームの中にいたのである。翻訳されないからといって、意味が完全に失われるわけではない。濱口映画におけるセリフの役割も、まさにここから理解されるべきだろう。
だがそのセリフが、現実的ではないと指摘する批評家がいる。しかしこれは濱口監督が追求しているリアリズムの性質を誤解しているのではないだろうか。
「急に具合が悪くなる」においてもそうだが、彼は人々が実際にどのように話すのかを再現しようとしているのではない。むしろ、人々がどのように互いを理解しようとするのかを描こうとしている。
言葉によって何をしようとするか
演技論において、セリフとは行為である。スタニスラフスキーは、俳優はセリフを話すのではなく行動すると考えた。マイズナーは、演技とは「想像された状況の中で真実に行動すること」だと定義した。重要なのは言葉そのものではなく、その言葉によって何をしようとしているのかである。
濱口映画のセリフもまた、その意味において機能している。彼の登場人物たちは、説明や説得のために話しているのではない。自らの考えを提示し、関係を形成するために話しているのである。相手を理解し、自らの感情を確認しようとする。
その一例として、マリールーが真理に「ユマニチュード」を実践しながら説明する場面は、まるで初めてダンスを教え、学ぶ恋人たちのように美しい。
ユマニチュードはケアの対象と最後まで1人の人間として向き合い、言葉を通じて関係を維持しようとする思想だが、これは濱口監督の言語観と深く響き合っている。言語を通じて関係を維持すること。それは介護の問題であると同時に、「急に具合が悪くなる」が問いかける主題でもあった。
濱口作品に対しては、「知的なふりをしている」という批判もある。しかし私はむしろ、それこそが濱口監督の最も重要な、優れた点だと考える。
今日、多くの映画は感情の即時的な伝達に重点を置く。しかし濱口監督は、登場人物たちが考え、語り合う過程を最後まで描き続ける。私には、彼が人間は言葉を通じて他者へ近づくことができると信じているように思える。
もちろん、誤解は生じる。翻訳されない瞬間も存在する。完全な理解は不可能かもしれない。それでもなお、言葉を投げかけ続けること。私は、それこそが濱口映画の倫理だと考えている。濱口監督は対話を通じて理解と共存の可能性を探求しているのである。
観念的かもしれない。しかし、その観念性は現実から逃避するための装飾ではない。むしろ、現実を生き抜くために必要な思考の形式なのである。
生涯の問いを発見する出会い
ここで再び、私自身の東大時代へと立ち返りたい。
フレンチレストランでの長い対話。ゼミでの発表と討論。清水先生との間で繰り返された議論、共有された問題意識。その中心には常に「アジアの開化と近代」という問いがあった。
マリールーと真理の対話に横たわっていたのも、フランスと日本という太平洋を隔てた二つの国の、それぞれ異なる近代の経験だったのかもしれない。だからこそ、私には単なる個人的な交流としてではなく、長年問い続けてきた「アジアの開化と近代」という問題系の延長として映ったのである。
学問とは、結局のところ人と人との間で営まれるものである。そして、ある出会いは、特定の答えを得るためではなく、生涯抱え続けるべき問いを発見するという意味において、より重要なのではないだろうか。
生について問い続け、対話を重ね、最終的には限りなく美しいひとつの実践例まで提示してみせる「急に具合が悪くなる」は、私たちすべてにとって極めて普遍的な作品として胸を打つものだと信じている。
答えではなく問い、結論ではなく対話。異なる背景を持つ人々が、言葉の森の中で終わらせたくない会話を続ける経験。それこそが映画という営みの、最も根源的な存在理由のひとつではないだろうか。
3時間16分という上映時間は、気づけばあっという間に過ぎ去っていく。そして深い感動に包まれ、ほほえみを浮かべながら涙している自分に気づくはずだ。
大切な誰かと共に、あるいはそのような誰かとの対話を思い出すために、今週末もまた映画館へ足を運んでみてはいかがだろうか。(洪相鉉)
Open Questions
- 濱口映画のセリフは現実的か?
- 言語ゲームにおける翻訳の役割は?
- 対話による共存の可能性は?






